2003/11/12

「ルターの礼拝改革」

牧師 鞭木由行

●序

毎年10月31日が、宗教改革記念日です。今年もルターから学びたいと思います。特に、ルターが「礼拝」をどのように考えていたか、礼拝をどのように改革したのか、そのことを、ご一緒に考えてみたいと思います。

宗教改革の中心にあったのは、「聖書の救い、福音の回復」でした。しかし、福音の回復に伴って生じてきた問題は、では毎週の礼拝をどのよう持ったらよいのかという問題でした。このような救いに理解のもとで、礼拝はどうあるべき礼拝なのか、正しい礼拝のあり方とは何なのか、という問題でした。ルターは、福音の真理に照らして、一つ一つの礼拝の要素を吟味し、福音の真理にふさわしいものを残し、福音の真理からはずれたものを取り除いて、カトリック教会の礼拝を「純化」していったのです。それは、言い換えれば「礼拝」とは、「救いの理解、福音の理解」と密接な関係があるということ、両者は一体であることを私たちに教えています

●今日の課題としての礼拝

このことは今日の私たちにとって、考えなければならない多くの問題を含んでいるように思います。なぜなら今日も、礼拝が大きく変化しているからです。現代における礼拝の変化という問題は、ここの教会だけにいたのではあまり気付かないかも知れません。しかし、聞いたことのない賛美歌が歌われ、メッセージも何か違う、全てがすごい勢いで、一種の流行のようになって、変化しているのが現在の教会の実状です。変化自体がいけないと言うことではないでしょう。しかし、私たちが懸念していることは、礼拝が変わるということは、その根底にある福音の理解が変化しているのではないか、という心配なのです。ルターが、聖書の救いを発見し、礼拝を変えていったように、変化の根底には考え方の違いがある。だから、今日の変化もまた、信仰そのものが変化することによって引き起こされたのではないか、私はその心配を抱かないわけには行かない。

だから、余計に私たちは、ルターが最初の時点において、つまり福音を正しく理解した時点において、礼拝をどのように考えたか、彼が礼拝をどのように改革したか、それを学ぶということは、今日の私たちにとって、非常に大きな意味を持っているように思います。もう一度プロテスタントの教会が、その起源において、どのように礼拝を考えて見たいのです。

●ルターの礼拝改革の原則

ルターは、1523年に『会衆の礼拝式について』というパンフレットをまとめました。そこでルターは礼拝の原則を明らかにしています。そこでルターは、カトリック教会で行われていた、礼拝の3つの誤りを指摘している。それを考えたい。ルターが新しい礼拝の理念に基づいて礼拝を最初に行ったのは、1525年10月29日でした。

第1の誤りは、礼拝において「神のみことばが沈黙していること」だ。つまり、みことばの朗読はあるが、説教の役割が著しく低い。第2の誤りは、みことばが沈黙した結果、聖人の物語や歌や説教の中に多くの非キリスト教的な寓話が入り込んできてしまった、ということでした。第3に、その様な礼拝が、神の恵みと救いとを確かめるわざとして行われている。つまり信仰ではなくて、むしろ善行としての礼拝となっている。礼拝に参加し、何かをすることは、神の前に善行を積むことであるという考え方です。礼拝が、善行となるような一切の要素を彼は取り除いた。

●改革の二本柱

そこで、ルターは礼拝を改革するにあたって、二つの道をたどっていきました。それは、一方でにおいては、福音にふさわしくない、良きわざとしての礼拝行為、功績としての礼拝要素を取り除いた。そして、もう一方では、みことばの説教を礼拝の中心に据えたことでした。ルターは言う。重要なことは神のことばが説教され、祈りが捧げられるのでなければならない。そうでないならば、クリスチャンは集まるべきではないのだ、とまで言っている。

ですからルターは、礼拝において、当然のように、みことばを中心に据えた。しかし、そのみことばが沈黙しないために、説教の職務が立てられたのです。ルターは、「神は説教者を通してみことばを語られる」と信じた。神は、今日も、この教会にはこの牧師、その教会にはあの牧師、ひとり一人の牧師を通して、みことばを語り続けているのです。そうでなければ、私たちは毎日曜日に、教会に集う必要もない。ルターは、みことばが述べ伝えられるところ、そこにキリストがおられる、と言っています。キリストはこの真理のみことばの内に実際、臨在しているのです。

私たちの信仰は、人間的な力によって成長していくものではない。人間的な努力が私たちを強い信仰の人にするのではない。信仰は、神の賜物です。信仰は、神が私たちのうちに創造してくれるものです。このような神の働きはどのようになされるでしょうか。それは、みことばを聞くことによるのです。パウロはこう言っている。ローマ人への手紙10章16節「信仰は、聞くことから始まる。聞くことは、キリストのことばによる。」そこに礼拝の本当の意義がある。礼拝において、私たちはみことばの説教を聞く。その時、神は私たちのうちに信仰を創造する。そういう意味で、ルターにとって、礼拝とは、神の業、神の働き、なのです。そこで本当に働いているのは、神ご自身であって、人間は受け身なのです。

●結論

ルターがどれくらいみことばに重点をおいたか。それをよく示しているのが、トルガワ城教会の献堂式において語った説教です。その説教において、彼は新しい教会のことをこう語っている。

「愛する主が、私たちに対して、その聖なるみことばをもって語り、私たちもこれに対して祈りと讃美の歌とによって主と語ること、このこと以外何事もこの新しい家に起こらないように祈って欲しい。」これこそが、ルターの考えていた礼拝です。みことばの説教によって神は語る。祈りと讃美によって会衆は語る、そこに神との出会いが生まれる。礼拝が成立するのです。宗教改革のこの精神に立って、みことばによる、神との交わりが豊に実現している教会でありたい。

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