2003/02/15

「アブラハムの最期」

牧師 鞭木由行

以上は、アブラハムの一生の年で、175年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのはら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エへフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住み着いた。

創世記25章7節-11節

●アブラハムの晩年の祝福

アブラハムの一生は175年でありました。でも、ここで私は8節の表現に注目して戴きたいと思います。特に彼の晩年の祝福が繰り返し述べられている。

アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。(8節)

文字通りには、晩年の祝福を三重に語っている。直訳すると「アブラハムは、(1)良い老年を迎え、(2)高齢となり、(3)年が満ちて」息絶えて死んだ。と言っている。

つまり、大往生であったと言っているのです。志半ばで死んだのではない。途中で病死をしたのでもない。彼に与えられた年数を全うして死んだと言うことです。もうそれ以上は望まない程に、彼はこの世を生きた。そのことは、私たちに新約聖書のヘブル書と比較するとき、少し不思議な気が致します。ヘブル人への手紙11章13節で、彼のことはこう述べられている。

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。・・・事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

アブラハムは、天の故郷にあこがれていたと教えている。では彼の実際の人生はどうだったのか。彼は地上の生涯を生き尽くした人であった。決して、閉じこもって天をあこがれる世捨て人ではなかった。信仰の中に逃げ込んで地上の生涯を軽く見た人ではなかった。彼こそは、この地上の生涯を力強く最期まで生き抜いた人だったのです。それこそ天にあこがれる人の本当の姿ではないでしょうか。信仰を持ち、天の御国を待ち望む人は、この地上の生涯を軽く考えることはしない。この地上では、確かに旅人であっても、この地上の生涯こそ彼がまず生きる場所である。それが、やがて御国に入るための備えとなるのです。だから、この地上に老いて、全力を尽くして生き抜くのです。そして、それが唯一できるのは、死後の行き先を知っている私たちです。175年の大往生は、天にあこがれる人のお手本です。

●老いの問題

私たちの人生の晩年をどう過ごすか、どう生きるか、ということも重要な問題です。先日も衣笠老人ホームのホーム長をしている背山先生をから「老い」の問題を学びました。その講演後、あるクリスチャンの方が、こう質問をされたのが印象的でした。その方も老人ホームで介護の助けをしている方ですが、そのホームにクリスチャンのお年寄りがいて、その方がクリスチャンであることを周囲の方々は知っている。それなのに、非常にわがままで、トラブルを引き起こし、いわば全然証しになっていない。そいうなかでどうしたらよいか、というのです。背山先生はご自分の経験から、「そのまま受け入れてあげて下さい、(人は)罪人なのだから」と言っていました。それは、自分の罪人としてのどん底の姿を本当に見ていたら、本当は驚くことではない。どうにもならない自分を知ったからこそ、イエス様を信じた。そこにたどり着くからです。

でも同時に、それを聞いて、考えさせられた。確かに晩年になって、そういう状態に陥っているならば、そのまま受け入れる以外にない。今更矯正しようとしても無駄でしょう。でも信仰者として、そうならないように備えていくことは、できることだと言えるでしょう。晩年になっても、私たちは長い人生をどのように生きてきたか、ということによって、やっぱり晩年も決まる。ぼけやアルツハイマーのような病気となれば仕方ありませんが、しかし、晩年の生き方は、やはりその人が生きてきた、その生き方の以上のことはできない。人は生きてきたように死んでいく、と言いますが、同時に人は信じてきたように、死んでいく者でしょう。

アブラハムの晩年の祝福は、彼の晩年になったので、自動的に与えられた祝福ではない。100年間に及ぶ信仰者としての真実な生き方から生まれ出てきたものではないか。それはもちろん神さまの祝福だけれども、その祝福はアブラハムの信仰と共に働いていることを私たちはみのがしてはならないと思う。

●死後の祝福

彼は晩年に祝福されていただけではない。死後において、彼の祝福が、さらに三つ記されています。第一は、彼が、マクペラの洞穴に葬られたこと。第二は、アブラハムの死後、彼の祝福は、イサクに受け継がれたこと(11節)。そして、第三に、「自分の民に加えられた」(8節)ことです。これが、何を意味するのか、色々な意見があります。しかし、それは、死んだ後、無に帰すると言うことを言っているのではないことも確かでしょう。孤独な死を通った後、「自分の民」と呼ばれる人々との交わりがあることを強く示唆している。それは、新約聖書の光に照らし合わせて考えるとき、キリストにある者たちとの交わり、神の民との交わりであり、そして、死からの復活を私たちに強く示唆している。それは、永遠の神を信じ、礼拝している、信仰者の特権です。アブラハムの死は、決して消滅して終わることはない、やがて復活する希望を、私たちの教えている。

●結語

彼の生涯を貫いていたことは何だったでしょうか。その偉大な生涯を一言で言い表すならば、それは「信仰の父」こそが、彼に最もふさわしい一言でしょう。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

ヘブル人への手紙 11章9節

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました

ヘブル人への手紙 11章17節

「信仰によって」という言葉こそ、アブラハムの生涯をたどる鍵である。彼は、信仰によって生き、信仰によって死んだ。そのことは、果たして私たちの生涯に老いても真実であるだろうか。私たちも、信仰によって勉強し、信仰によって仕事をなし、信仰によって結婚し、信仰によって子供を育て、信仰によって老年を迎え、信仰によって死ぬ者でありたい。すべてが神を恐れる中でなされるとき、私たちはアブラハムの子孫であり、彼の祝福を相続することになる。もちろんアブラハムと同様、色々な失敗の中で、なお、神に頼ることを求め続けていくとき、そこに、私たちの祝福があることを覚え続けたい。

この宣教は、2月9日の礼拝の宣教を元にしたものです。

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