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「博士たちの礼拝」
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(2節)
●博士たち
イエス様の誕生の時、東方から訪ねてきた博士たちおりました。東の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来る場面は、クリスマスの降誕劇には、なくてはならない場面です。「東方」とは、おそらく彼らがバビロンからやって来たことを意味しているのでしょう。彼らが興味深いのは、彼らは本当の神を知らない、異邦人であるという点です。メシヤを待ち望んでいたイスラエル人ではなく、神の約束の民でもなく、まことの神を知らない異邦人です。しかし、この東の博士こそは、最も純粋にクリスマスを祝った人々でした。私たちも、その博士たちからクリスマスをどのように祝うべきなのかと言うことを教えられたいと思う。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」(1節)
この「博士たち」は、普通「3人」ということになっていますが、彼らが何人であったか、聖書には記されていません。「黄金、乳香、もつ薬」という3種類のプレゼントを持ってきたので、いつの間にか3人の博士ということになったと思われます。6世紀の終わり頃になると、彼らには名前さえ付けられました。「メルコン、バルシャツァル、ガスペル」です。この東方の博士たちは、昔から人々の想像力を駆り立てていったのです。
●博士たちの礼拝
それならば、彼らは何のためにエルサレムにやって来たのでしょうか。これこそ私たちが学ぶべき見本です。2節にこう書いてある。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(2節)
直訳するならば「拝むために来た」と言っているのです。生まれた御方を、礼拝するために来た、と言っているのです。そして、彼らは実際に礼拝しました。11節をご覧下さい。
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(11節)
彼らは、御子の前にひざまずき、ひれ伏して、拝んだ。更に、彼らはささげものをした。彼らは初めからそのために来たのです。ここには、彼らの行動の中に、私たちが学ばなければならない本質的なことがあります。それは、礼拝とは、根本においてひれ伏し拝むことなのです。私たちは礼拝に毎週来ていますが、私たちは、神の前にひれ伏すために来ているでしょうか。皆さんは実際に、神の前に「ひれ伏し拝んだ」ことがあるでしょうか。
●今日の礼拝
残念なことに、今日礼拝について誤った考え方が広がりつつあります。礼拝というものが、神を深く認識して、神の前にひれ伏し拝むよりは、人間の必要を満たすものだという考えがはやっている。礼拝にいやしを求め、明日生きる力を求め、慰め、励ましを求めている。その人の求めを満たすのが礼拝だと思っている。そこで、礼拝が人間の必要を満たすために賛美を変え、説教を変え、集った人々が幸福感を味わうために工夫している。
しかし、ここに来た博士たちを見て下さい。彼らは一体何を得たのでしょうか。彼らは、何も得なかった。彼らは、自分の財産を投げ出して、非常に高価な黄金、もつ薬、乳香を準備し、それを携えて長い苦しい旅を続け、やっと御子を見いだして、それをささげて帰って行っただけです。彼らがしたことは、御子の前にひれ伏し、御子を礼拝しただけです。そして、そのような博士たちの姿を見て、私たちはほめたたえている。彼らはすばらしい見本だと考えている。だからこそ、私たちは神を礼拝するとはどういうことかを学ばなければならないのです。
●礼拝の真の理由
彼らの言っていることを聞いてください。2節でこう言っている。「王としてお生まれになった方を拝みに来た。」これが礼拝です。なぜ彼らは拝んだのでしょうか。何のために長旅をして、ささげものをしたのでしょうか。何のためにそんなことが必要だと考えたのでしょうか。それは、彼らは、今や生まれた幼子が、誰であるかということを良く知っていたからです。生まれた御方は「王」である。彼らは、この幼子が全世界を治める「王」であることを認めたのです。その子が、すでに王であることを認めたのです。だから礼拝されるに最もふさわしい、ひれ伏し拝むに最もふさわしい、黄金、もつ薬、乳香をささげるに最もふさわしいことを、心から認めていたのです。だから、あのような礼拝をした。
言い換えれば、私たちは、この博士たちのように礼拝できないのは、この御方の偉大さを知らないからなのです。神は、全知全能の神である。全宇宙の創造者である。永遠から永遠まで唯一の支配者である。そのような理解があって、礼拝は成り立つのです。私たちもそのお方の前に、ただ、ただ、ひれ伏し拝む以外にない。そして、その時、真の礼拝ができているのです。
●訴え
私たちも、自分が王様であるならば、神を礼拝することはできないのです。自分が自分の王であることを止め、自分の王として、主として、御子イエスを受け入れるとき、初めて礼拝ができる。自分を神に明け渡すことをしないで、自分の思いに従って生きて行くだけならば、神はやがて邪魔になる。ヘロデのように、抹殺するようになる。きょう、私たちの心を占めている思いは何でしょうか。「王として生まれた方は、どこにいますか。その方を拝みにまいりました。」これこそがクリスマスの精神です。
この宣教は、12月22日の礼拝の宣教を元にしたものです。
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