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「カルヴァンと聖書」
私は宗教改革期の書物に触れれば触れるほど、今日の教会が、宗教改革の時代に確立されたものを失いつつあるという危機感を持ちます。それは、神学においてもそうですが、同時に、教会の礼拝や音楽といった実際的な面においても離れてしまっていることを思います。時代と共に変わってゆく面もありますが、しかし、決して変わるべきではない多くのところで、私たちは宗教改革者たちが抱いていたものを失いつつあるように思います。10月31日の宗教改革記念日にちなんでカルヴァンを覚えましょう。
●カルヴァンの人となり
カルヴァンは、1509年にフランスのリヨンに生まれました。両親は、息子がずば抜けた才能を持っていることを知り、当時の習慣に従って、カトリック教会の教職に付かせようと考えたのです。カルヴァン自身は、哲学、神学、法律、文学の研究をして、大学の教授となり一生を研究生活にささげたいと思っていたのです。しかし、彼が24歳の時、転機がやってきました。彼は詩篇の注解書に自分の回心のことを書いています。「神は突然の回心によって、年齢に比べてはなはだかたくなになっていた私の心を征服し、これを従順なものに変えられた。」この時から、一応神を信じているという生き方から、神に従って生きる信仰へと変わっていった。生きた信仰を得るようになったのです。
●聖書の世界へ
回心以後、彼は聖書の研究に猛然と取り組んでいくのです。彼は55歳の短い生涯でしたが、彼の聖書研究が残したものは、膨大な量でした。ほぼ聖書全体の注解書を書きました。また、彼は毎週、牧師として、みことばを語り続けた。しかし、彼が聖書を研究し、その結果、書き残したものの内で最大の貢献は「キリスト教綱要」という書物でした。人間が生み出した書物で、おそらくこれほど後代に影響を与えた本は他にはないでしょう。
●神を教える聖書
その「キリスト教綱要」の中で、彼が聖書について言っていることは、彼が聖書をどのように考えていたか理解するのに役立ちます。キリスト教綱要の第一巻には「創造者である神の知識」という題が付いています。つまり神をどうしたら知ることができるのか、という題です。 まず第一に、人間は、誰であっても、神についての知識を生まれながらにして持っていると指摘しています。それは、私たち人間の世界を見れば分かります。人間の社会であれば、必ず宗教がある。人間の歴史で宗教のない時代というのはなかった。宗教がないのは、犬や猿の世界です。神がいることを、人間はだれもが生まれながらに知っているはずである、と論じます。しかし、人間は、生まれながらのままでは、本当の神に到達することは出来ないです。むしろ、偶像崇拝に陥っていく。人間の神についての知識は非常に不完全なものだからです。 第二に、カルヴァンは、神を知る方法について、自然を通しても神についてある程度知ることが出来ると言います。ローマ書1章20節。「神について知りうることは、彼らには明らかである。それは、神が明らかにされた。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造されたときからこのかた、被造物(自然)によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はない。」私たちも美しい自然、整然とした自然法則、そういうものから、神がいることはよく分かるはずです。これらは偶然に出来てきたのではない。しかし、人間の罪のゆえに、自然を通して神を認めることは、限界があるのです。 ではどうしたら、神について知ることが出来るのでしょうか。第三の方法が、聖書です。まことの神に達するためには、聖書が必要である。そうして、彼は聖書についての議論を始めるのです。彼のすべてにわたる根本的原則、そして出発点は、「聖書のみ」ということでした。彼は聖書を信仰と行いの唯一の基準としたのです。 今日どれほどそのような努力が必要とされているでしょうか。教会は聖書から学び答を得るより、他の学問から取り入れつつある。心理学、カウンセリング、音楽、芸術、色々な分野から取り入れるほうが多いのです。しかし、聖書から直接答を得ること、その努力を続けることなく、宗教改革の精神は、教会の中に残っていくことはないでしょう。
この宣教は、11月3日の礼拝の宣教を元にしたものです。
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