2006年 8月

ペンテコステ後第9主日  8月6日
宣教のビジョン 小山田格師

主はアブラムに仰せられた。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、

あなたの名を大いなるものとしよう。

あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、

あなたをのろう者をわたしはのろう。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」 

創世記 12章 1ー3節

聖書日課

エペソ人への手紙 2章 13節ー22節

賛美
賛美
こども賛美
賛美
パン裂き
頌栄
讃美歌7番
二匹のさかなと
讃美歌453番
讃美歌205番
讃美歌540番
ペンテコステ後第10主日  8月13日
神に導かれたところで オッケルト師

さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

出エジプト記 17章 8ー13節

聖書日課

マタイによる福音書 13章 44節ー52節

賛美
賛美
こども賛美
賛美
頌栄
讃美歌2番
二匹のさかなと
讃美歌382番
讃美歌545番
ペンテコステ後第11主日 8月20日
主が見つめておられるもの 遠藤勝信師

それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。

さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。

ヨハネの福音書 11章 17ー37節

聖書日課

イザヤ書 55章 1節ー5節

賛美
賛美
こども賛美
賛美
頌栄
讃美歌290番
神のお子のイエスさま
讃美歌146番
讃美歌540番
ペンテコステ後第12主日 8月27日
信仰によって義と認められる 岸本聖司師

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もし、アブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みではなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きのない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神にとって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。

主が罪を認めない人は幸いである。」

それでは、この幸いは、割礼のある者だけに与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは「アブラハムには、その信仰が義と認められた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼とのきに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。 

ローマ人への手紙 4章 1ー12節

聖書日課

列王記 第一 19章 9節ー18節

賛美
賛美
こども賛美
賛美
頌栄
讃美歌15番
神のお子のイエスさま
讃美歌270番
讃美歌545番

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